愛したい。そう願う人は多いけれど、それ以上に、私たちは「愛されたい」と渇くように願っている。
なぜだろう。なぜこんなにも、“誰かに愛されている実感”を求めてしまうのか。
それは、愛されることが、存在の肯定だからです。
誰かに「好きだよ」と言われるとき、私たちはただ恋人として認められているのではない。もっと深い次元で、「あなたがここにいていい」と言われている。
つまり、愛されることは〈生きていることの承認〉に近い。
子どもは、母親に愛されることで「自分がここにいてもいいんだ」と感じる。
大人になっても、形を変えて同じことを求めている。「私はちゃんと存在している?」という問いに対する、誰かからの“はい”の返事。それが「愛されている」という感覚なのです。
けれどこの欲求は、あまりに根深く、底なしの井戸のようでもあります。
どれだけ言葉をかけてもらっても、どれだけ優しくされても、「足りない」「まだ不安」と思ってしまう。まるで、愛されていることを“証明”してほしいかのように、試し行動をしたり、不安で束縛したり、逆に冷たく突き放してみたりする。
ここで立ち止まって考えたいのは、「本当に愛されていないのか、それとも“愛されている実感”が自分の中で足りていないのか?」ということ。
私たちが渇いているのは、たぶん「愛されること」そのものではない。
「無条件に愛されること」「ありのままで愛されること」なのだと思う。
社会の中で、役割を果たすことで評価されることには慣れている。
でも、恋愛というのは、役割や機能ではなく「あなたという存在そのもの」が愛される場所であってほしい。だからこそ、外見や成果や優しさや我慢ではない、自分のもっと奥にある「そのままの私」を受け入れてほしいと願ってしまう。
そして気づいてしまう。
「ありのままで愛される」という願いを、他者に叶えてもらうことが、いかに難しいかを。
人は、他人の中に“自分が見たい自分”を映してしまう。
だから、どれだけ相手が愛してくれていても、自分の中に「私は愛されて当然の存在だ」という自己感覚がないと、それを信じることができない。
つまり、究極的に「愛されたい」という渇きは、「私は私を愛せていない」という叫びなのかもしれない。
他人に「あなたは愛されているよ」と言われるより、
自分で「私はここにいていい」と思えることの方が、
ずっと深く、ずっと強く、私たちを潤してくれる。
それでも恋愛というのは、どこかで他者に〈自分を映してもらう鏡〉でもあります。
だからこそ、時に人は恋に落ち、誰かの目を通して「私はここにいていい」と感じる。その実感は、幻想であっても、救いになる。
私たちが“愛されたい”と強く願うのは、
きっと誰よりも深く、“自分を許したい”と願っているから。
愛されることに渇くあなたへ。
その渇きの正体は、あなたがどれだけ愛を知っているかという証拠。
そしてあなたは、あなた自身を愛する力を、きっとすでに持っている。