短編小説「きみのいない喫茶店で」

第一部:記憶の窓辺

 喫茶店「珈琲ブルーノ」のガラス窓は、きまって午後の柔らかい雨を吸い込んで、曇りガラスのようにぼやける。その曇りの向こうで行き交う人々は、どこか別の時代に生きているように見えた。風景が滲むだけでなく、時間まで曖昧になっていく。川村麻衣は、そんなブルーノの午後が好きだった。

 「……また、今日も、ね。」

 カップを口に運びながら、麻衣は誰にともなくつぶやく。目の前には開きかけの手帳。開くたびに同じページが出てくるように感じるのは、きっと自分がそれ以上めくろうとしないからだ。そこには、こう書いてある。

 「4月11日 午後2時。ブルーノで待ち合わせ」

 たったそれだけ。けれど麻衣にとって、その一文は、日記以上に重い記憶のかたまりだった。

 その日、麻衣は彼を待っていた。篠田悠真。大学のサークルで出会った先輩で、麻衣が初めて本気で恋をした人だった。大袈裟ではなく、人生で最初で最後の恋だと思っていた。だからこそ、彼が何も言わずに突然いなくなったことが、彼女の中で時間を止めてしまった。

 喫茶店に足を運ぶようになったのは、それから半年後のことだ。それまでの麻衣は、怒っていた。悲しみよりも、怒りが先にあった。「どうして?」という問いが、「ひどい人だった」に変わるまで、麻衣は感情を塗り替えるように生きていた。

 でも、ある日ふと思い出した。「そういえば、ブルーノに行こうって言ってたな」と。最初は、ただの思いつきだった。なのに扉を開けた瞬間、彼の残り香のような空気に包まれて、涙が止まらなかった。

 それからだった。毎年、4月11日にここに来るようになったのは。

 今年で、三年目。

 「本当に、馬鹿みたいだよね」

 自分に言い聞かせるように呟く。けれど、コーヒーの香りが鼻腔を抜けていくと、どこかでまた期待してしまう。──もしかしたら、今日こそ彼が、ひょっこり現れるんじゃないかって。

第二部:声のない時間

 ブルーノの窓辺にいると、世界は音を失う。

外のざわめきも、行き交う車の音も、子どもたちの笑い声さえも、分厚いガラスの向こうで輪郭を失い、淡いノイズになる。麻衣はそれが好きだった。音が失われた時間は、思い出の声をよく響かせてくれる。──彼の、あの笑い声や、呼びかける声や、間の抜けた冗談も。

「川村って、漢字で書くと固そうだけど、実物は意外とゆるキャラだよね」

 最初にそう言ってきたとき、麻衣はむっとした。だけどそのあと彼が「いや、いい意味で」と笑ったのを見て、反論するのをやめた。

 あのころの麻衣は、もっと尖っていた。哲学のゼミにのめり込み、恋愛や遊びより「世界とは何か」に夢中だった。サークルにも顔は出していたが、どこか距離をとっていた。人といることに、馴染めなかったのだ。

 けれど悠真は、その麻衣の距離感を嫌がらなかった。逆に、その空気を面白がるように、ちょっかいをかけてきた。

「川村って、寝る前とか、宇宙のこと考えてそうだよね。『今ここに私がいる意味』とか。」

「……そんなこと考えてないです。」

「うそだ。絶対考えてる。俺にはわかる」

「根拠は?」

「顔。」

「……やっぱり意味わかんないです、先輩。」

 どこまでも軽いようでいて、言葉の端々に妙な深さがあった。

それが麻衣の心を少しずつほぐしていった。

 ふたりが付き合い始めたのは、桜が舞うころだった。春風がやわらかく吹いて、麻衣が道端で立ち止まって空を見上げていたとき、彼はぽつりと言った。

「俺たち、付き合ってみる? たぶん面白いと思うんだ」

 そのときも、変な告白だと思った。でも、断る理由が見つからなかった。いや、きっと本当は──断る理由を、麻衣自身が持ちたくなかった。

 けれど、付き合い始めてからの半年間、麻衣は何度も戸惑った。彼はなにも聞いてこなかった。過去のことも、家庭のことも、悩みも、何一つ。

 だからあるとき麻衣は訊いた。

「なんで何も聞かないんですか? 私のこと。」

「うーん。聞かないほうが、近くにいられる気がして。」

「……意味がわかりません。」

「ほんとは、俺だって聞きたい。でも、知ったら、勝手に想像しちゃいそうで怖い。勝手にかわいそうって思ったり、勝手に安心したりしそうで……。それってたぶん、近くなるんじゃなくて、遠くなることだと思うんだ。」

 その言葉が、麻衣の中で今も鳴り響いている。

 彼は、距離をとるのがうまい人だった。やさしさの名前をした距離の取り方。それは時に、残酷なほど静かで、孤独だった。

 そして、彼は本当にいなくなった。

 最後に交わした会話は、ブルーノでのひとときだった。窓の外で急に雨が降り始めて、彼は笑って言った。

「なにこれ、まるで別れ話みたいだね」

「……やめてくださいよ」

「うん、ごめん。でも、もし俺が急にいなくなったら、ちゃんと探してくれる?」

「は?」

「いや、なんとなく」

「そういうのやめてくださいって」

「うん、ごめん。でも、麻衣なら大丈夫だと思って」

 そのとき彼の瞳が、ほんの一瞬だけ哀しみを宿していたのを、麻衣は今でも覚えている。それが「なにかの予感」だったのか、それとも、すでに「決意のあとの目」だったのか──麻衣はまだ答えを見つけられずにいる。

 そうして、三日後には彼のアパートは空っぽになっていた。

 連絡は取れず、共通の知人たちも誰も彼の行方を知らなかった。

突然の失踪は、誰にとっても衝撃だったが、誰もそれを深く追いかけなかった。そういう人だったのだ、と言われて、麻衣は納得したふりをした。

 本当は、誰よりも彼を知っていたのは自分だと思っていた。でも──今思えば、何も知らなかったのかもしれない。

第三部:心の行き先

「お姉さん、ひとりですか?」

 その声は、かすかに高く、輪郭がやわらかかった。隣の席に座っていた少女は、アイスココアのストローをくるくる回しながら、じっと麻衣を見ていた。

「うん、ひとりだよ」

「誰かを、待ってるの?」

「……なんでそう思うの?」

「なんとなく。さっきから、入り口の方をちらちら見てるし」

 その観察眼に、思わず笑ってしまった。

「するどいね」

「兄がね、昔、同じ感じだったの。誰かを、ずっと待ってたんだって」

 その言葉に、なにかが引っかかった。少女の話す兄という存在。なぜか、麻衣の心に妙な違和感を残した。

「その人、来たの?」

「来なかった。でも、兄は毎年、同じ日に同じ場所に行ってたよ。……待ってたんだと思う」

 その言葉が、胸に突き刺さる。

「お兄さん、今は?」

 少女は少し黙った。そして、ポケットから写真を取り出した。色褪せた、でもどこか懐かしい写真だった。そこに写っていたのは──

「……」

 麻衣は言葉を失った。

 そこにいたのは、間違いなく、篠田悠真だった。少し痩せていたが、あの目の奥の光は、変わっていなかった。

「……この人、悠真……?」

「うん。兄の名前。篠田悠真。数年前に……病気で亡くなったの。まだ若かったけど、すごく静かに……。まるで、透明になったみたいに、ふっと」

 麻衣の中で、世界が崩れた。時間が、過去から現在へと、一気に押し寄せる。今まで凍っていた心の断片が、氷解していく。

「どうして……私に、その話を?」

「兄の遺品にね、手帳があったの。そこに、『4月11日 ブルーノ』って、何年分も同じように書いてあった。最初は意味がわからなかったけど、何か、誰かを待ってたんだって、思った」

 少女の目が、まっすぐ麻衣を見つめていた。

「あなたが、その人なんじゃないかって、なんとなく思ったの。写真と似てるし……雰囲気とか、空気とか」

 麻衣は、息を吸うことすら忘れそうだった。手帳。悠真も、同じように「4月11日」を記していた。そのたびに、この店に来ていた。

 彼は、麻衣を待っていたのだ。

 来ないことを知りながら、あるいは希望を持ちながら。

 いなくなることを選んだあとも、彼の心のどこかは、ここに、麻衣のそばに、まだあったのだ。

「……ありがとう。教えてくれて」

 少女は、少しだけ笑った。

「兄は、最後までなにも話さなかった。でも、私にはわかったの。大切な人がいたってこと。大切に、大切に想ってた人が」

 麻衣の目から、涙がこぼれた。こんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。声も出ないまま、ただ、止めどなく涙が流れ続けた。

「兄は……幸せだったと思う。来なくても、会えなくても、待てる相手がいるって、すごいことだから」

 少女はそれだけ言って、席を立った。外は、もう雨があがっていた。


 夕方、店内に残っていたのは麻衣とマスターだけになった。マスターはゆっくりと近づいてきて、言った。

「……あの人、よく来てましたよ」

「……篠田、悠真のこと?」

「ええ。決まってこの席に座って、あまりコーヒーも飲まずに。何時間も、窓の外を見てました」

「……」

「『今日も、来なかったな』って、帰り際にいつもつぶやいてました。でも、どこかうれしそうでしたよ。『来るかもしれない』って顔で、何年も通ってましたから」

 麻衣は、静かに笑った。

「……彼らしいですね。勝手にいなくなって、勝手に待ってて、勝手に……ひとりで」

 でも、その「勝手さ」が、麻衣はたまらなく愛おしかった。

 ふと、バッグの中の手帳を開いた。あのページを、そっと破いた。そして代わりに、白紙のページに書いた。

 「4月11日 ありがとう、また会いに来るね」

 麻衣は、ようやく今日を終えることができた。

 窓の外は、淡い光に包まれていた。小さな花壇のすみで、濡れた土に咲いた小さな花が、雨上がりの風に揺れている。


終章:心の行方

 翌年の4月11日、麻衣は再びブルーノにいた。

手には、彼の妹が送ってくれた手紙。そこには、こんなことが書いてあった。

「きっと兄は、なにもかも話せなかったと思う。苦しさも、優しさも。だけど、私は知ってる。兄が最後に言った言葉──

『会えなくても、きっと、あの人の世界のどこかに僕はいる。そう信じて生きてたから、幸せだった』」

 コーヒーを口にする。優しい苦さが、舌の奥に残る。

そして麻衣は、ひとりごとのように、つぶやいた。

「……今もいるよ、あなたは」

 彼女の声は、静かな店内に、微かに響いた。

そのとき、扉のベルが、かすかに鳴った。

 新しい客が入ってくる。麻衣はその気配に、少しだけ微笑んで、窓の外を見た。

 心はもう、誰かを待ってはいない。

けれど、思い出のなかの誰かは、これからもそっと隣にいてくれる。

 ──そう信じることが、たしかな未来へ向かう、最初の一歩になるのだと。

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