「なぜ、“片思い”はこんなにも苦しいのか」

片思いとは、愛のかたちのひとつだ。しかし、それは満たされた愛とは異なる。言葉にされず、応えられず、届かぬまま自分の内側に渦巻いてゆく。この状態に人は「苦しい」と感じる。では、なぜ片思いはこれほどまでに私たちを痛めつけるのだろう。

愛は本来、〈関係〉である。他者との相互性の中に芽生え、育まれ、変化する営みである。しかし片思いは、その〈関係〉が一方向に歪んだ状態だ。愛が他者に向かって流れていくのに、同じだけの流れが返ってこない。まるで河の水が一方的に流れ落ちていくような、そんな不均衡。そのアンバランスが、私たちを孤独にする。

人は本質的に「認識されたい」存在である。愛するとは、相手を見つめること、相手に意識を向けることだ。そして、私たちは無意識にこう願っている――「私も、あなたの世界の一部になりたい」と。けれど、片思いにおいて、その願いは空中に浮かぶまま、どこにも届かない。相手の世界に自分が不在であるという感覚、それこそが痛みの正体だ。

片思いの苦しみにはもうひとつ、哲学的な側面がある。

それは、「不確定性」の中にずっと放り込まれた状態であるということ。

好きという気持ちは確かにある。でも、それが相手にどう伝わっているのか、相手がどう思っているのか、自分の未来がどうなるのかは、どこまでいっても分からない。その曖昧さ、不確かさ、決定不能性。恋愛は、ある意味で「偶然」に大きく左右される出来事だ。片思いとは、その偶然性のただなかに、身を晒し続けることだ。

現代哲学者のジジェクは、「人間の欲望は“他者の欲望”である」と言った。

私たちは、ただ相手を欲するだけではない。相手が私を欲してくれることを欲しているのだ。片思いとは、この“欲望の交差”が成立していない状態。私はあなたを見つめている、でも、あなたは別のものを見つめている。そこに生まれる“すれ違いの苦しさ”は、愛の本質的な欠落を私たちに突きつける。

それでも、なぜ私たちは片思いをしてしまうのだろう。

それは、誰かを愛することが、人間にとって〈自分という存在の輪郭〉を確認する行為だからだ。

誰かを好きになるとき、私たちはただその人に惹かれているのではない。「その人の前にいるときの自分」が好きになっているのだ。相手を見つめることで、自分がどんな存在であるかが照らされる。だから、その人にどう思われているかが、自分自身の価値を決めるかのように感じられてしまう。

けれど、片思いのなかで見えてくるのは、実は“相手”のことだけではない。

“自分”という存在が、どれだけ不安定で、どれだけ誰かに求められたがっていて、どれだけ寂しさを抱えているか――その痛いほどの輪郭だ。

片思いの苦しみは、自分自身の未完成さをあぶり出す鏡でもある。

だから片思いは、ただの「報われない恋」ではない。

それは、自分の内部の深層に潜る旅だ。他者を愛しながら、自分の奥底の渇きや傷や希望と向き合う時間だ。

愛が報われるかどうかよりも大切なのは、その愛を通して、どんな自分と出会えたか。

どんな自分の声を聴いたか。

そして、その声にどこまで誠実でいられたか。

片思いは、いつも孤独で、報われないまま終わることもある。けれどその中にしか咲かない花がある。その花の名前を、誰かが知らなくてもいい。あなた自身がその花の存在を忘れなければ、それはもう愛として、世界に咲いている。

そしてその花が、あなたのこれからの人生の道しるべになることも、あるのです。

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