「なぜ、“駆け引き”は恋の始まりに現れるのか」

好きになったら、まっすぐ想いを伝えればいい――そう思うのに、なぜか私たちはその言葉をすぐには口にしない。わざと返信を遅らせたり、そっけないふりをしてみたり、自分の気持ちを濁してみたりする。心の内は「会いたい」「話したい」「好きだ」と叫んでいるのに、表面には微妙な距離感や曖昧な態度が並ぶ。

そう、「駆け引き」と呼ばれるものだ。

けれどこれは、単なる恋愛のテクニックではない。駆け引きとは、恋の始まりにほとんど必然的に立ち現れる、存在と存在の間に張り詰めた緊張の儀式なのだ。

それは「この気持ちを、どこまで差し出していいのか」という問いかけであり、「傷つくことを、どれだけ自分に許すのか」という揺れでもある。

哲学的に言えば、駆け引きとは“自己の開示に対する恐れと欲望のせめぎ合い”である。

誰かを好きになるというのは、自分という存在の一部を差し出すことだ。そこには必ず、否定される可能性がつきまとう。「あなたが好き」と言うことは、「あなたに拒まれることを私は恐れていない」と言うことでもある。だが、人は恐れているのだ。否定されることを。無視されることを。軽く扱われることを。

だから人は、“安全地帯”にとどまりながら、自分の想いを探る。相手がどこまで自分を望んでいるか、どこまで近づいても大丈夫か、その「距離」を測るための行為。それが駆け引きの本質だ。言葉にする前に空気を読む。目の動きや声の調子、沈黙の質から、愛の可能性を占おうとする。

この時期の恋は、とても不安定だ。

だがその不安定さのなかにこそ、恋の純粋さが宿っている。

つまり、まだ相手に好かれている確証がなく、それでも心がその人に向かっていこうとしている、その宙ぶらりんな時間こそが、恋愛の始まりの最も繊細な風景なのだ。

ではなぜ、私たちは駆け引きをしてしまうのか。

それは、愛されたいからである。

だがもっと深いところでは、「愛されたという実感を、相手の能動性によって得たい」と望むからだ。

人はただ言われたいのではない。自分から問いを差し出し、揺さぶり、試し、それでも向こうから“選ばれる”という構造を求めてしまう。

それは自己価値の確認であり、自我の安定を賭けた勝負でもある。

「私が求めたから得た」ではなく、「相手が私を欲してくれたから得た」という事実がほしいのだ。

そのために、あえて引いたり、言わなかったりする。

けれど、その駆け引きの中に、本当の想いが埋もれてしまうこともある。

一歩を踏み出すのが怖くて、相手の出方を待っていたら、相手もまた同じ理由で動けず、やがて関係が自然消滅してしまうことさえある。

つまり、駆け引きには「可能性の育成」と「可能性の消失」という、両方の顔がある。

だからこそ問わなければならない。

駆け引きをしている自分は、何を守ろうとしているのか。

そして、何を本当は差し出したくて仕方がないのか。

恋とは、本質的に危ういものだ。

自分という存在を晒すことでもあり、自分が選ばれないかもしれない現実と向き合うことでもある。

それでも人は恋をする。

他者の中に自分を見出すために。

誰かと“関係”という物語を編んでいくために。

駆け引きの裏にある、言葉にできないまごころ。

それをどこかで、ほんの少しでも素直に差し出せたなら――その瞬間にこそ、恋は“関係”へと変わるのかもしれない。

たった一言「好きだよ」と言うことの背後には、数え切れないほどの恐れと祈りがある。

それを知っているあなたの恋は、きっとすでに、美しい。

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