「これは愛なのか、それとも依存なのか」――恋愛が深まれば深まるほど、私たちはこの問いにぶつかる。誰かを強く求める気持ちは、ときに甘美で、ときに苦しく、ときに破壊的になる。だからこそ、私たちは迷う。これは本当に“愛”なのだろうか。それとも、私は“依存”してしまっているのだろうか。
愛と依存のちがいを一言で語るのは、難しい。
なぜなら、どちらも〈相手を求める〉という構造を持ち、しばしば見た目には区別がつかないからだ。
けれど、哲学的な視点から言えば、この二つのあいだには明確な違いがある。
愛とは、相手の存在そのものを祝福し、相手の自由を尊重する感情であるのに対し、依存とは、相手の存在によってしか自分を保てなくなった状態だ。
つまり、愛は“他者の存在を通して世界が広がる”が、依存は“他者の存在がなければ世界が崩れてしまう”。
依存には、“不在への過剰な恐れ”がある。
相手がいないと寂しい。連絡が来ないと不安になる。少しでも相手の態度が変わると、自分の価値が揺らぐ。そうして、相手をコントロールしたくなったり、相手の感情のすべてを読み取ろうとして心が疲れてしまったりする。依存とは、相手という存在に自分の“生きる支柱”を委ねてしまうことなのだ。
いっぽうで、愛とは、相手の存在に触れることで“自分”という存在がさらに深まり、広がっていくことだ。
それは「あなたがいるから、私は私でいられる」という感覚ではなく、「私が私であることを大切にしながら、あなたと共に在りたい」という関係性。
愛は、二人のあいだに橋をかけるけれど、その橋を渡るかどうかは、常に自由であることを許す。
だから、たとえば、相手が自分と違う考えを持っていたとき。
愛なら、それを「そういう考えもあるんだね」と受け止められる。
依存なら、それを「自分と同じでなければ安心できない」と拒否したくなる。
愛なら、相手の幸せを願うとき、「それがたとえ自分と共にいることではなくても」と、苦しくても手放すことができる。
依存なら、「あなたがいなければ私は壊れてしまう」と、相手を握りしめてしまう。
それが、関係を歪ませ、やがて相手にも自分にも苦しみを生む。
だが、ここで自分を責める必要はない。
依存は、誰の中にもある。愛の中に、依存が混じることは自然なことだ。
なぜなら私たちは、そもそも“つながり”を必要とする存在なのだから。
大切なのは、自分の心の中にある“依存の部分”に気づき、それを責めるのではなく、優しく見つめていくことだ。「私は何に怯えているんだろう?」「なぜ、こんなにも相手を失うことが怖いのだろう?」その問いを、誠実に掘っていくこと。
そしてもうひとつ重要なのは、「愛すること」と「愛されること」を、同じ天秤にかけすぎないことだ。
愛は、常に対等でなければいけないものではない。
一方が一時的に支え、一方が寄りかかることもある。
それを交互に繰り返しながら、関係は成熟していく。
依存があるからダメなのではなく、“依存だけ”で関係が成り立っているとき、それはやがて破綻してしまう。
本当の愛は、「私はあなたがいなくても大丈夫。でも、あなたと一緒にいたい」と言える心の強さと優しさの中にある。
他者に依存することでしか自分の存在を感じられないとき、人は不安の海に溺れてしまう。
けれど、自分の足で立ちながら誰かを愛せるようになったとき、そこにあるのは、もはや不安ではなく信頼だ。
愛とは、あなたの手の中から、誰かの世界を照らす光である。
そしてその光は、まず“自分自身”という灯台に、静かに火をともすところから始まる。