「渋谷の坂道、言葉の落としもの」

2022年8月20日(土)

午後3時。待ち合わせ場所の「渋谷モディ」の前に着いたとき、陽翔(はると)はもうそこにいた。小さめの黒いトートバッグを肩から下げて、Tシャツの裾をくしゃくしゃにして立っていた。手にはアイスコーヒー、片方のイヤホンは耳に、もう片方はぶらさがっている。あの感じ、たぶん時間よりずっと早く来て、音楽を聴きながら待ってたんだと思う。

私は声をかけずにしばらく立ち止まって、スクランブル交差点の喧騒の中で、彼の姿だけを目で追っていた。なんでもない日だった。特別なイベントがあるわけじゃない。映画を見るわけでも、買い物をしたいわけでもない。陽翔が「会える?」とだけLINEしてきたから、「いいよ」と返した。ただ、それだけだった。

「ごめん、待った?」

「いや、今来たとこ」

そのやりとりも、何度目だろうって思いながら、私たちはスペイン坂の方へ歩き出した。8月の渋谷は熱気でむせかえるほどだったけど、歩道の影を選ぶみたいにして、ゆっくりと進んだ。センター街を避けて、東急ハンズの脇を抜け、坂の上の「ミヤシタパーク」まで上がったころには、背中にじんわり汗がにじんでいた。

ミヤシタパークの屋上。人はそれなりにいたけど、どこか空気がゆるやかで、私たちは人工芝の端に腰を下ろした。すぐ近くでは、カップルがポラロイドで写真を撮っていて、子どもを連れた家族が遊具の方へ走っていく。空はきれいに晴れていて、雲はまばら。陽翔はTシャツの胸元を軽く引っ張って風を入れながら、「東京って、やっぱちょっと疲れるね」とつぶやいた。

私は何も返せなかった。疲れているのは、東京のせいじゃなくて、きっと私たちの関係のせいだ。そう言いたくなって、でも言えなかった。

ここ数ヶ月、陽翔とのやりとりは確実に減っていた。既読はすぐつくけど、返信は短くて、そっけない。でも、今日はなぜか会おうって言ってきた。その理由を私はずっと考えていて、もしかしたら「最後に会おう」というサインなんじゃないかって、勝手に予感していた。

「この前、地元の友達と会ってさ」

陽翔が切り出した。「そのうちのひとりが結婚するんだって」

「へぇ、もうそんな歳なんだ」

「うん。俺たちって、まだ大学生なのに、なんかもう“先”が来てる感じしない?」

私は頷いたけど、話がどこへ向かうのかが怖くて、息を飲んだ。

「美咲ってさ、俺のこと、どう思ってる?」

急に名前を呼ばれたことにも驚いたし、あまりに直球な質問に、答えを失った。

私はどう思ってるのか、自分でもはっきりわかっていなかった。でも、少なくとも“何も思ってない”は嘘だった。

「……わかんない。なんか、たぶんずっと、あなたのこと、特別だと思ってた」

「思ってた?」

「うん、今は、よくわかんない」

「俺は、たぶん……今も、特別に思ってるよ」

その言葉が、どこから出てきたのか、何の意図があるのか、それはわからなかった。

でも、私の胸の奥に長い間沈んでいたものが、ゆっくり浮上してきた気がした。

日が少し傾いて、ミヤシタパークの影が長く伸びていた。

「帰ろっか」と彼が言って、ふたりでまた坂を下りた。

途中、交差点で信号が変わるのを待っていたとき、私は陽翔の手の甲をちらっと見た。掴みたかったけれど、掴めなかった。彼も、何もしてこなかった。

渋谷駅のハチ公口の前で別れたあと、私はひとりで井の頭線に乗った。窓の外に、先ほどふたりで歩いた道が流れていく。

何もはじまらなかった一日。けれど、何かが確かに変わった一日。

“どう思ってる?”という問いに、もっとまっすぐ答えられる自分だったら、ふたりの未来は変わっただろうか。

そんなことを考えて、私は渋谷をあとにした。夏の真ん中に取り残されたような気持ちを胸に抱えたまま。

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