私たちは恋をするとき、無意識に“理想の恋人像”を思い描いている。優しくて、誠実で、少しユーモアがあって、価値観が合って、連絡の頻度もちょうど良くて……と、気づけば頭の中にはチェックリストのような理想像ができあがっている。
でも、よく考えてみよう。その“理想”は、本当に「自分」のものなのだろうか。
いつから、そんな条件が「恋人に求めるべきもの」になったのだろうか。
もしかすると、その理想はどこかで刷り込まれた“外側からの声”でできているかもしれない。
たとえば、「理想の恋人像」は、友人の恋バナ、SNSの写真、恋愛ドラマ、自己啓発本、親からの価値観、過去の失恋……そんな無数の他者のまなざしの中で徐々にかたちづくられていく。つまり、私たちが思う“理想”は、しばしば“社会的に好まれる人間像”であって、必ずしも自分にとっての幸福を保障するものではない。
哲学者のミシェル・フーコーは、主体とは常に“他者の語り”によって形作られると言った。
つまり「私はこういう人が好き」という一見“個人的”な好みでさえ、それは社会の中で形成された“期待”や“欲望の型”を無意識に内面化した結果である可能性がある。
「理想の恋人像」とは、じつは“理想の自分像”でもあるのだ。
「こんな人に愛される私は価値がある」
「こういう人と一緒にいる私は素敵に見える」
そんなふうに、自分を肯定するための“他者を通じた鏡”として恋人像を描いていることがある。
すると、恋人を選ぶという行為が、いつのまにか“自分を証明するための選択”にすり替わっていく。
その結果、「好き」よりも「正しい」「賢い」「評価される」といった感覚で相手を選んでしまい、本当の意味で〈関係〉を築くことが難しくなってしまう。
理想像には、落とし穴がある。
それは“実在する相手”ではなく、“理想化された他者”に恋をすることになるからだ。
人は誰しも不完全で、矛盾を抱え、時に愛しにくい部分を持っている。
理想像のフィルターを通して相手を見ると、その“ズレ”に苦しむことになる。
「こんなはずじゃなかった」と思ったとき、それは相手が間違っていたのではなく、最初に掲げた“理想”のほうが、現実の人間の複雑さに耐えられなかったのかもしれない。
では、どうすればいいのか。
“理想を捨てる”ということではない。
むしろ、自分の中にある“理想”が、どこから来たものなのかを問い直してみること。
本当にその優しさが必要なのか?
本当にその収入が、自分の安心につながるのか?
本当にその趣味の一致が、自分にとって大切なのか?
それは、恋人選びというより、“自分の人生観の輪郭”を知る作業に近い。
本当に大切なのは、「どんな人が理想か」ではなく、「誰といるときの自分が、最も自分らしくいられるか」なのかもしれない。
理想の人を探すのではなく、関係性の中で育っていく“リアルな相互性”の中に、愛を見出すこと。
理想とは、常にどこか遠くにあるものだ。
けれど、誰かと向き合い、喜びや不安を共有し、ともに時間を過ごす中で、ゆっくりと“理想とは別の幸福”が浮かび上がってくる。
その幸福は、リストには書けない。
でも確かにそこにあって、心に触れたとき、「ああ、この人でよかった」と思える。
そしてきっとそれこそが、本当にあなたのための“理想”なのだ。