2022年9月10日(土)
関内の「ジャズ喫茶ちぐさ」を出たのは、ちょうど23時半を過ぎた頃だった。
ライブは終わっていたけれど、古いウッドベースの余韻がまだ店内に残っていて、グラスに少しだけ残されたバーボンのように、夜がほんのり甘く濁っていた。私と湧(ゆう)は並んで店を出て、伊勢佐木モール方面に歩き出した。終電はまだ間に合う。でも、このまま帰るには、今日の空気が少しもったいなかった。
彼と会うのは、2ヶ月ぶりだった。
大学のジャズ研究会で出会って、最初はただの音楽仲間だったのに、今年の春あたりからふたりで会うことが増えて、気づいたときには、私は彼の隣にいることが“当たり前”だと思っていた。けれど、当たり前が続くと思ったのは、私だけだったのかもしれない。
6月の終わりに、湧は連絡を返さなくなった。理由はわからない。怒らせた覚えもないし、何かを言ったわけでもない。ただ、ある日を境に、ふたりの会話が急に呼吸を止めたみたいに止まった。私は何度かメッセージを送ったけれど、既読もつかなくなって、やがて送ることもやめた。
それなのに昨日の夜、突然「明日、ちぐさ行かない?」というLINEが来た。たった一文。それにどう返せばいいかわからなくて、1時間くらいスマホを持ったまま動けなかった。でも、返事は結局「いいよ」の二文字だった。
「最近、ベースは弾いてるの?」
横に並んで歩きながら、私は訊いた。
「うん。まあ、ボチボチ」
「相変わらず曖昧だね」
「そうかな」
「そうだよ」
彼は少し笑った。声は出さなかったけど、口元が少しだけ緩んだのが見えた。
その笑い方に、私は弱かった。言葉にできないすべてを許してしまいそうになる。
「ねえ、なんで急に誘ってくれたの?」
訊いてしまってから、言葉が重たくなって落ちたのを感じた。
でももう戻れなかった。彼は歩みを止めずに、少しだけ顔を伏せながら言った。
「なんとなく…って言ったら怒る?」
「ううん、怒らない」
「ちゃんと話したいことがあった。けど、なんかさ、どう言えばいいかずっとわからなかったんだ」
「…今は、わかってるの?」
「たぶん。いや、まだ半分くらいかも。でも、今日美雨に会って、やっぱり会ってよかったって思った」
「それって、どういう意味?」
「どうって…、ごめん、なんかまだちゃんと答えになってないね」
「うん、全然なってない」
ふたりとも笑った。商店街のシャッターが降りた通りを、笑い声がふっと抜けていく。
そのあとしばらく、言葉はなかった。
でも私は、さっきよりずっと静かな気持ちで歩いていた。
彼の隣が、また少しだけ馴染んできていた。春の頃みたいに。
「次は、何のライブに行こうか」
駅前のローソンが見えてきたとき、彼がそう言った。
それは、また会う約束のようで、同時に、まだ確信のない宣言でもあった。
私は「考えとく」とだけ返した。
“また会いたい”という言葉の代わりに。
関内駅のホームに上がる直前、私は一瞬だけ彼の手に目をやった。
何も起こらなかったけれど、それでも十分だった。
今日の私は、十分すぎるほど、心が動いていた。
別れは終わりじゃない。
ときどき、あいまいな再会が、静かに恋を蘇らせる。
それが本当に“恋”と呼べるものなのかは、まだわからないけれど、少なくとも、私はもう一度この人と何かを始めたいと思っている。
それは、終電の中でそっと胸に落ちてきた、ひとつの確かな事実だった。