2022年9月5日(月)
東大前の駅を出てすぐの、あの緩やかな坂道を、久しぶりに歩いた。
目黒通りまで抜ける細い道の途中に、小さなパン屋があって、その向かいのベンチが好きだった。駒場キャンパスの南門から出ると、すぐにそのベンチがある。そこに彼女――瑞季が座っていた。
駅前のマルエツで買ったのだろう、袋から少しはみ出たアイスティーのボトル。白いシャツに、ネイビーのロングスカート。何も変わっていなかった。あの春から、たぶん何も。変わったのは、俺の心の距離だけだった。
「来るの、早かったんだ」
そう声をかけると、瑞季は笑って「いや、暇だったから」とだけ答えた。
それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。
“暇だったから”の言い方に、どこか刺すようなニュアンスが混ざっていたから。
俺の中にある後ろめたさが、すぐにそれを拾ってしまった。
6月に、俺たちは自然消滅のように連絡をやめた。
喧嘩もなかった。別れよう、という言葉すらなかった。
「最近、ちょっと忙しいかも」そう俺が言ったあの日を最後に、既読のまま返事は来ず、俺も返さなかった。
でも今日、三ヶ月ぶりに瑞季から「ちょっとだけ話せない?」というLINEが届いた。
パン屋で買ったスコーンをふたりで分けながら、取り留めもない話をした。
ゼミのこと、バイト先の新しい後輩のこと、好きな映画が今年も続編を出すって話。
話題は一見軽やかだったけど、言葉のあいだには確実に緊張があった。
会話が跳ねるたびに、胸の奥の水面が揺れた。
この再会が、どこに向かっているのか、俺にはまだわからなかった。
瑞季がアイスティーのボトルのキャップを閉めるとき、小さな音がした。
それが、何かを終える合図のように思えて、ふと不安になった。
「ねえ、私、怒ってると思ってる?」
急にそう訊かれて、俺は少し間をおいて、「……思ってる」と正直に答えた。
「怒ってないよ」
「でも、納得もしてない」
風が吹いて、瑞季の髪が頬にかかる。彼女はそれを無造作に耳にかけた。
その仕草を、何度も見てきた。好きだった。たぶん、今も。
でも、それを言葉にしてしまうには、今日の時間はあまりに遅すぎた。
「別れたってことになるのかな、私たち」
「わからない。ちゃんと付き合ってたかどうかも、実はよくわかってなかった」
「そうだね」
「でも、会いたいとは思ってた」
「じゃあ、どうして連絡くれなかったの?」
「……自信がなかったんだと思う」
「自信?」
「瑞季が、俺のこと、本当に好きだったかどうか」
それは、ずっと俺が心に隠していた本音だった。
いつも楽しそうに笑ってくれていたけど、その笑顔が“友達としての安心”なのか、それとも“恋人としての好き”なのか、確信が持てなかった。
でも、それを訊く勇気もなかった。壊れるのが怖かった。
瑞季はしばらく何も言わなかった。そして、小さな声で言った。
「私、ちゃんと好きだったよ。でも、あなたの目がいつもどこか遠くを見てる気がして、たぶん、少しずつ諦めちゃったんだと思う」
俺たちは、互いにきちんと傷ついていた。
それを確かめ合うための再会だったのかもしれない。
日が傾いて、ベンチの影が長くのびていく。
「じゃあね」
彼女がそう言って立ち上がったとき、何か言いかけてやめた口元を、俺は見逃さなかった。
その“言わなかった言葉”こそが、本当に伝えたかったことなのだろうと、直感的に思った。
瑞季は駅の階段を降りていった。振り返らなかった。
俺はベンチに残って、冷めたアイスティーをひと口飲んだ。
渋谷のほうから、夕暮れの風が吹いてきた。
別れは、いつも後からやってくる。
そのときにはもう、何もできないってわかっていても、心だけはずっと、そこに立ち尽くしている。
今日のこの再会は、きっと“もう一度”ではない。
でも、失われたものに輪郭を与えるために、必要な時間だったと思う。
誰かと終わるために、もう一度会う――そんな恋も、あるのだろう。