2022年9月15日(木)
午後4時、本郷三丁目の交差点。
丸ノ内線の改札を出たところにあるドトール、その一番奥の席で、私は香澄の横顔を見ていた。注文したアイスカフェラテの氷が、コップの中で静かに解けていく。彼女は大学ノートを開いたまま、そこに何かを書いていたけど、ほとんど手は止まったままだった。手の中で握られたシャーペンが、何度か小さく回されるたび、彼女の緊張がこちらまで伝わってくる。
こうやってふたりきりになるのは、何ヶ月ぶりだろう。いや、たぶんもっと久しぶりだ。
同じ文学部、同じゼミ。最初に会ったのは、2年の春学期。桜が散ったばかりの東大構内で、「清水先生、プリントの順番いつもぐちゃぐちゃですよね」と笑っていたのが香澄だった。笑うとき、少しだけ目を細める癖があって、それがなんだか、ずっと見ていたくなる表情だった。
でも今の香澄は、笑っていない。
私たちは春に一度だけ、大学の帰り道、根津神社の裏手のベンチで長く話したことがあった。あのときの会話が、たぶん境目だった。関係が何かに傾いてしまう直前の、決壊の予兆。
それからはずっと距離ができた。必要最低限の連絡だけ、ゼミの連絡事項や課題の確認。
だけど先週、香澄から「ちょっとだけ時間もらえないかな」とメッセージが届いた。
ちょっとだけ――その言葉の軽さと、手のひらのような静けさに、私は心を持っていかれた。
「……私さ」
香澄が口を開いた。「ずっと迷ってたんだ」
私は何も言わず、ただ相槌のように目線だけを向けた。
「この前、学科の飲み会で、白石先輩と話してて、なんか突然思い出したんだよね。あなたと根津で話したこと」
「……ああ、あの日」
「そう。変な話だけどさ、あのときの自分の顔、すごく鮮明に覚えてるの。自分で自分を見てるような変な感覚」
彼女は一度言葉を止めた。シャーペンを置いて、指を組む。
ドトールの窓の外を、人が流れていく。カップル、スーツ姿の男性、白衣を着たままの医学生、そして、それを追うようにして吹き抜けていく風。秋のはじまりの風。
「私ね、たぶんあのとき、あなたのことを好きになってたんだと思う」
その言葉は、まっすぐで、でもとても静かだった。まるで一行の詩のように、淡くて、なのに強く残る。
「でも、自分が誰かを好きになるってことに、自信が持てなかった。たぶん、今もまだ少し怖い」
私は何も言えなかった。いや、言葉を選びすぎて、何も口にできなかった。
「それでも、ちゃんと伝えたくて。あなたに言わずに、終わりにするのは嫌だったから」
沈黙がテーブルの上に置かれた。氷がまた、ひとつ、音を立てて溶けた。
私は自分の手のひらが少しだけ汗ばんでいるのに気づいた。
そして、ゆっくりと言葉を出す。
「俺は、あの日から、香澄のことをずっと考えてた」
「……ほんとに?」
「うん。でも、同じように、確信がなかった。香澄が俺を見てくれてるのか、ただの仲間としてなのか。俺だけが勝手に、心を預けてるんじゃないかって」
香澄は笑った。あの、目を細める笑い方だった。
懐かしくて、胸がぎゅっとなった。
「ねえ、少しだけ歩こうか」
カフェを出ると、日が落ちかけていて、本郷通りの空がほんのり赤く染まっていた。ふたりで歩いて、赤門の前を抜け、石畳の小道をゆっくりと進んだ。
言葉はなかった。でも、風が吹いていて、その風だけが私たちのことを全部知っているようだった。
なぜ伝えられなかったのか、なぜ今日やっと伝えられたのか、そしてこのあと、どこに向かうのか。
すべてがまだ、形を持たないままだった。
でも、少なくとも今、私は香澄と歩いていた。
それだけで、今日は十分だった。
心が何かを取り戻したような、そんな夕暮れだった。