短編小説「この胸、の飾らない言葉たち。」

第一章:君の静けさの隣で

好きだって、言えたらよかったのに──そう思った瞬間は、たぶん何度もあった。教室の窓際、帰り道の自転車置き場、駅の改札を抜ける後ろ姿。どれも言葉になりかけて、でも形にはならなかった。私はいつも少しだけ遅れていた。あなたが笑うそのタイミングの、ほんの一瞬後ろで、胸が跳ねる音だけを抱えていた。

あなたは、静かな人だった。誰とでも笑い合うわけじゃないし、クラスで特別目立つタイプでもなかった。でも、ひとたび話すと、その言葉の選び方がどこか丁寧で、芯があった。曖昧に笑うことがなくて、何かを語るときは、どこかで本当のことを少しだけ混ぜてくるような人だった。だから私は、惹かれたのかもしれない。話していないときのあなたの沈黙に、意味がある気がして。誰かといなくても、自分を保てる人だと思った。そんなあなたの、ほんのわずかな「揺れ」を見つけたくて、私は気づけばいつもあなたの隣にいた。

美術室は放課後の光がいちばん似合う場所だった。あなたはその奥の席にいつもいて、黙々と絵を描いていた。私が入ってきても、うん、とか、まだ、とか、短い返事しかしなかった。でもそれで、よかった。話しすぎると、何かが壊れそうだった。沈黙のまま、あなたのとなりにいる時間がいちばん心地よかった。描いている横顔を、見るふりをして、ずっと見ていた。

「これ、好き」そう言って、あなたのスケッチブックをめくる指を止めたのは、ある日曜日の放課後だった。誰もいない校舎で、あなたとふたり。ページに描かれていたのは、淡い光が差し込む窓辺の風景だった。誰もいない部屋。静かに舞い上がるカーテン。薄く射す青の影。そこには、まるで音がないように見えた。あなたは私の顔を一瞬見て、「どれ?」とだけ訊いた。「これ。すごく……迷ってる感じがする。けど、悲しくはない」そう言ったら、あなたは、「ああ、それ……自分の部屋」と呟いた。

自分の部屋。あなたが毎日、朝と夜を過ごす場所。誰にも見せない空間。そこを描いたという事実が、何よりも胸に響いた。絵は、言葉よりも嘘をつかない。あなたの沈黙の意味が、少しだけわかった気がした。私の中の「好き」は、まだ形にならないまま、でも確実にその絵の中で芽吹いていた。

言えない言葉が、胸の奥で大きくなっていく。その膨らみが苦しくなりはじめたのは、冬が近づいた頃だった。卒業が近づいているという現実が、足元に影のようにまとわりついてくる。あと何回、あなたに会えるんだろう。あと何回、あなたの沈黙の隣にいられるんだろう。数えたくなくて、でも数えてしまって、それがまた私を苦しくさせた。

そして、二月の終わり。放課後の昇降口で、あなたは私の名前を呼んだ。「ちょっと、いい?」その声は少しかすれていて、でもどこかで決意のようなものを感じさせた。あなたは、白い封筒を差し出した。「……捨ててもいいけど。言葉にすると、たぶんバカみたいで。だから……描いた」

私は、うん、と言って受け取った。けれどその場では開けられなかった。開いたら、たぶん泣いてしまうと思ったから。あなたの沈黙のすべてが、そこに詰まっている気がして、怖くて、でもそれ以上に愛おしくて。

まだ、開けていない。開けたらきっと何かが変わってしまうから。
でもわかっている。そこにあるのは、きっと「飾らない言葉」たち。
この胸に、ずっと沈んでいた、同じ温度の何か。

第二章:まだ開けられない手紙

白い封筒は、開けられないまま、私の机の引き出しにある。毎晩、手をかけては、やめる。昼間は平気なのに、夜になるとどうしようもなく心がざわついて、眠れなくなる。言葉が怖いわけじゃない。むしろ、ずっと欲しかった。でもそれが、本当にここに届いてしまったと思うと、胸の奥に、何かが張り詰めてしまう。答えが出てしまうこと。それがこわい。
「好きじゃなかった」と書いてあるかもしれない、そう考えると開けられなかった。
「好きだ」と書いてあったらどうしよう、そう考えるともっと開けられなかった。

手紙というものは、開く前がいちばん美しい。予感だけで膨らんだ世界には、希望と不安と、無数の可能性が詰まっていて、それら全部が「まだ失われていない」という奇跡を保っている。私が今手にしているのは、言葉ではなく「可能性」そのものだった。
だけど──時間は待ってくれない。

卒業式まで、あと十日。
教室では、誰かが花を作っていて、誰かが黒板に寄せ書きをしていた。友達が「あの人に告白するって決めた」なんて言いながら笑っているのを聞きながら、私はその声が遠くに聞こえるような感覚のまま、窓の外ばかり見ていた。桜のつぼみはまだ固くて、でもその内側には確かに春が用意されているようだった。

「卒業したら、会わなくなるね」
誰かがそう言ったとき、私の中でなにかがぐらりと揺れた。
もう一度、あなたの声が聞きたかった。短くてもいいから、あの少しだけかすれたような、あたたかい声が。

放課後、意を決して、美術室に行った。あなたが、まだそこにいる気がして。
扉を開けると、部屋には誰もいなかった。でも、光はそこに残っていた。
あなたがいつも座っていた場所に近づいて、机の上に手を置く。冷たい木の感触。けれど、その冷たさの下に、確かにあなたの「気配」がある気がした。
何も言わず、何も描かず、ただそこに座っていたいと思った。

ふと、机の引き出しが少しだけ開いていて、その中にもう一枚、スケッチが入っていた。迷ったけれど、それを手に取った。描かれていたのは、後ろ姿のふたり。肩を並べて、同じ方向を見ている。ふたりの間には、小さな空白があって、その間にだけ、薄い色が塗られていた。
それは、まぎれもなく「今の私たち」だった。

その空白を、私がどう埋めるのか──
それは、あの手紙を開けてから、決めよう。

私はようやく、引き出しに手を伸ばす。
封筒の白は、ほんの少し、時間を吸ってやわらかくなっていた。

第三章:言葉にしてしまうには、あまりにも静かすぎた

封を切るとき、音はしなかった。手紙の中には一枚のスケッチが入っていて、それを引き出した瞬間、胸の奥で何かがはじけた気がした。描かれていたのは、私だった。斜め後ろからの視点で、頬杖をつきながら窓の外を見つめている姿。髪の一本一本まで丁寧に描かれていて、けれどそこにはどこか曖昧な線が混ざっていた。背景は描かれていない。ただ私がいた。誰かに見つめられているということを、絵で教えられるなんて思わなかった。裏には文字があった。たったひとこと。

「君を描くたび、ほんとうの気持ちを言えなくなっていった。」

声にならないまま、涙が頬を伝った。ずっと言いたかったことが、ここにいた。私の中に言葉があふれていたのではなく、あなたの中でずっと黙っていた言葉が、ようやくかたちになって現れたのだと思った。

翌日、美術室に行くと、あなたはいた。窓際の席で、筆を持ったまま、じっと何かを見つめていた。私が立っているのに気づいても、あなたは振り返らなかった。でも私はわかっていた。いま、この沈黙を壊してもいいのだと。私はゆっくりと歩いて、あなたの向かいに座った。何も言わず、あなたも何も言わなかった。だけど、もう十分だった。

「描いてくれて、ありがとう」
それだけ言うと、あなたはゆっくり顔を上げた。目が、静かに揺れていた。
「言葉にしようとすると、うまくいかないんだ。伝えようとすると、どこかが抜けていく。だから描いた」
私はうなずいた。うれしかった。言葉にならなかったそのすべてが、私には伝わっていた。

窓の外では風が吹いていた。カーテンが揺れて、光が踊った。
しばらくふたりでその揺れを見つめていた。
まだ恋人ではない。だけど、たぶん、もうそれは名前なんて必要のない距離だった。
あなたと私のあいだに流れる時間が、あまりにも静かで、あたたかかったから。

だからきっと、これから少しずつでいいと思った。
飾らない言葉で、飾らない気持ちを、ひとつずつ確かめていくように。
この胸の、飾らない言葉たちを。

最終章:この胸のどこかで、ずっと灯っている

卒業式の朝、窓を開けると、冷たい風がカーテンを膨らませた。まだ咲かない桜の枝の奥で、少しだけ春の音がした。制服のリボンを結びながら、鏡に映る自分の顔を見たとき、どこか昨日とは違う静けさがあった。少しだけ目が強くなっていた。何かを受け取った人の目だった。

式は流れるように過ぎていった。名前を呼ばれて立ち上がり、証書を受け取り、校歌が流れて、拍手がひとつの波のように打ち寄せた。けれど、私の耳にはあなたの声しか聞こえていなかった。何も言わずに伝えてくれた、あの絵の線のひとつひとつが、いまも胸の奥で形を変えずに残っている。

校庭に出ると、みんなが写真を撮り合っていた。泣いている子も、笑っている子も、それぞれの別れ方で春を迎えていた。私は、あなたの姿を探した。人混みのなかで、きっとどこかにいるはずだと信じて。

でも、見つけられなかった。

もう一度、校舎に戻ってみた。静かな廊下を歩いて、美術室の前で立ち止まった。ドアは開いていて、光が床に落ちていた。中には、もう誰もいなかった。でも机の上に、一枚の紙が置かれていた。

それは、白い紙に鉛筆で描かれた、たったひとことの言葉だった。

「言葉にならなかったものは、全部、ここに置いていく。いつかまた会えたら、今度こそ、話そう。」

胸がきゅっと縮まった。でも、不思議と、悲しくはなかった。言えなかったことがあるということは、まだ続きがあるということだと思った。終わりじゃない。ここは、静かなはじまりだった。

私はポケットから小さなメモを取り出して、その紙の下にそっと差し込んだ。

「描いてくれて、ありがとう。私も、いつかちゃんと話すよ。」

光が静かに差していた。もうすぐ桜が咲く。
この胸のどこかで、ずっと灯っている。飾らない、あなたの言葉たち。
そして、それに静かに応えようとしている、私の言葉たち。

きっといつかまた、どこかで。
今度はもう少し、言葉にできるようになって、あなたに会える気がした。

終わらせない終わりが、たしかに、そこにあった。

──この胸、の飾らない言葉たち。今も息をしている。

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