短編小説「隣り合う背中の暖かさを、私は忘れないから」

第一部:背中の温度

 放課後の音楽室は、冬の陽だまりの匂いがした。

西日がガラスをゆっくりと染めながら、床の木目に長い影を落としている。ピアノの蓋は閉じられていて、空気は静かだった。まるで、だれかの思い出がひととき息をひそめているみたいに。

 笹本結衣は、音楽室の隅のベンチに座っていた。教室ではなく、部活でもなく、ただ静かに時間が過ぎるのを待つように。制服のブレザーの袖を両手でぎゅっと握りしめ、身体を小さくしている。

「……あのさ」

 背後からかけられた声は、少しかすれていて、でも不思議と暖かかった。振り向くと、そこには、クラスメートの宮田蒼真が立っていた。黒縁の眼鏡、少し猫背で、話すときにいつも肩をすくめる癖がある。クラスでもとくに目立たないけれど、なぜか不思議と目に入る存在。

「ここ、使ってる?」

「……ううん。別に、ただ座ってただけ」

「なら、隣いい?」

 そう言って、彼はためらいなく結衣の隣に腰を下ろした。冬の冷たいベンチに、すこしだけ体温が伝わる。けれど、その温度は予想していたよりも、ずっとやわらかかった。

「ピアノ、弾くの?」

「……うん。でも、今日は弾く気分じゃなくて」

「わかる。俺もさ、絵、描くけど、描きたいときと、描けないときってあるよな」

 彼は、美術部だった。学校の文化祭で展示された蒼い風景画──夜明け前の港町を描いた絵が、妙に印象に残っていた。細かい筆致で描かれた船の影、まだ目覚めていない家々、空にはひとつ星が残っていた。

「宮田くんの絵、きれいだった。あの港の絵、ずっと見てた」

「……まじで? 恥ずかしいな、それ」

「恥ずかしくなんかない。……すごく、静かで、でも、さびしくはなくて」

 沈黙がふたりの間に流れる。でもそれは、気まずい沈黙ではなかった。ただ、「何も言わなくていい時間」がそこに流れている、そんな感じ。

 そして、ふと結衣は思った。この静けさのなかに、背中の温度を感じるような瞬間がある、と。ぴたりと触れ合っていないけれど、すぐ隣にいるという確かな気配。そのことが、こんなにも安心するなんて。

「……今日、嫌なことがあったの?」

 彼の声が、ふいに優しくなった。

 結衣は答えなかった。でも、首を横にふらなかったのは──たぶん、話してもいいと思ったからだ。

「先生に、ピアノの進路のことで……もっとちゃんと努力しろって、言われた」

「努力、してるじゃん」

「……してるよ。でも、届かないと意味ないって」

 言いながら、涙が出そうになって、ぐっとこらえる。

 そのとき、蒼真がそっと、ブレザーの袖を引いた。

「……俺、努力の意味とか、あんまわかんないけどさ。でも、誰かの心を動かしたら、もうそれって、ちゃんと届いてるってことじゃない?」

「……」

「俺、結衣のピアノ、好きだよ」

 その言葉は、どんな賞状よりも、まっすぐだった。

胸の奥の小さな結び目が、ふわりとほどけたような気がした。

 夕日がゆっくりと沈む。光の角度が変わって、ふたりの影が、少しだけ重なった。

背中と背中。触れてはいない。でも、そこに確かに在る「体温」があった。

 ──私は、この暖かさを、たぶんずっと忘れない。

第二部:すれ違いの春、沈黙の手紙

 三学期の終わり。桜のつぼみが、少しずつふくらんでいく頃。校舎の空気にも、どこか「終わり」の匂いが混ざり始める。

 結衣と蒼真は、相変わらず音楽室にいた。放課後の音楽室は、ふたりにとって、言葉よりも確かな「居場所」になっていた。

 ピアノの音に重ねるように、蒼真がスケッチブックにペンを走らせる。無言のまま続くその時間は、まるでふたりだけの秘密のようで、心がやわらかくほどけていくようだった。

「……進路、決めた?」

 春風のような声で蒼真が言った。

 結衣は、弾いていた音を止めた。鍵盤の上で、指が止まる。

「……音大に行くつもり。でも、東京」

「東京か」

「遠いよね」

「うん。遠い」

 会話が、そこできれてしまう。言いたいことは、どちらも胸の奥にあるのに、それを口にすれば、なにかが壊れそうだった。

「宮田くんは?」

「……地元に残る。美大の地方分校、受かったんだ。……俺、家のことがあってさ、あんまり遠く行けなくて」

 そう言って笑ったけれど、その笑顔は少しだけ曇っていた。

 そして、その日の帰り道、結衣は彼に手紙を渡した。

「読まなくてもいい。でも……私、ちゃんと伝えたかったから」

「……うん。ありがとう」

 その封筒は、淡い桜色だった。

 それから数日後、蒼真は手紙の返事をくれなかった。いや、渡していないだけかもしれない。あるいは、言葉にできないだけかもしれない。だけど、そのまま卒業式を迎え、結衣は東京へと旅立った。

 音楽室には、もう誰もいなかった。

 蒼真の姿も、風のように、静かに消えていた。


 そして、それから三年が経った。

 春。東京での生活にも慣れ、音大でのレッスンに追われる日々。けれどふとした瞬間に、あの音楽室の午後が、胸をよぎる。

 蒼真からの返事は、一度もなかった。

 でも、忘れたことはなかった。隣り合って座ったベンチのひんやりとした手触り。背中ごしに伝わる、彼の体温。言葉を交わさなくても、心がほどけていったあの静けさ。

 ある春の午後、結衣は帰省した。帰り道、ふと校舎に立ち寄ってみたくなり、足を向けた。今はもう卒業生。入構はできないはずなのに、音楽の先生が偶然出てきて、にこやかに言った。

「おかえり、笹本さん。ちょうど、あなたに渡したいものがあったの」

 それは、古びた封筒だった。桜の絵が描かれた、三年前の春のもの。

「これ……?」

「宮田くんがね、卒業のときに、預けていったの。『いつか、戻ってきたら渡してほしい』って」

 指が震えた。封を開けると、そこには、たった一言だけが書かれていた。

「背中、あったかかったね。俺も忘れないから、もう少しだけ待ってて」

 涙が、音もなくこぼれた。

 言葉は遅れて届いたけれど、それでもその体温は、今もここに残っていた。

最終部:背中が触れ合うその日まで

 手紙を受け取った日から、結衣の世界は少しだけ音を取り戻した。

三年前の静けさとは違う、心がすこし温もりを帯びたような、そんな音。

 手紙の言葉は、短く、でもどこまでも長かった。

「背中、あったかかったね。俺も忘れないから、もう少しだけ待ってて」

 その「待ってて」という言葉は、約束ではなく、願いのようだった。

いつか、またどこかで。無理にでもなく、追いかけでもなく。

それでも「もう少しだけ」という時間が、ふたりを繋ぎとめていた。

 春休みが終わり、結衣は東京へ戻った。

 けれど心の片隅に、あの手紙が灯火のように灯っていた。

そしてふと思った。「あの絵が、もう一度見たい」と。

 文化祭で飾られた蒼真の絵。蒼い風景。夜明け前の港町──

その絵に、彼がどんな思いを重ねていたのか。いまなら、少しわかる気がした。

 展示された絵は、今も高校の一室に保管されていた。許可を得て見ることができたその日。絵の下には、小さな文字が添えられていた。

 「夜が明けても、この静けさは失われない」

 結衣は、そっと手を伸ばして、その言葉に指を触れた。

そして、不意に誰かの気配を感じた。振り返ると、廊下の向こうにひとりの青年が立っていた。

 ──蒼真だった。

 変わっていなかった。いや、少し背が伸びた気がする。でも、佇まいはあの日のまま。

「……久しぶり」

「……うん」

 その声だけで、涙が込み上げてくるのを、どうにかこらえる。

「ここに、来る気がしてた」

「私も……なんとなく、会える気がした」

 ふたりの間には、三年という時間があった。でも、その距離を埋めるのに、言葉は少しだけでよかった。

「……手紙、読んだよ」

「俺、ちゃんと渡す勇気、なかった。あのときの自分、情けないくらいに」

「そんなことない。あの手紙が、今日を連れてきてくれたから」

 沈黙が訪れる。でも、それはあの日と同じ、心地よい沈黙だった。

 結衣がふと言った。

「ねえ、ちょっとだけ、座らない? ……あの音楽室に」

 ふたりは、かつてのベンチに腰を下ろした。

そして、またあのときのように、背中が並んだ。

 少しだけ、肩と肩が触れそうになる。でも、触れない。

あの日と同じ、でも確かに違う。ふたりの間に流れる空気が、未来へ向かっていた。

「いま、描いてる?」

「うん。風景画が多いけど、最近は人を描きたいと思ってる」

「……描いてほしいな。私のこと」

「いいの?」

「うん。あの日の、背中のままで」

 蒼真が小さく笑った。その笑顔が、結衣の心にそっと灯をともす。

「でも……今度は、正面も描きたいな」

「……うん、いつかね」

 西日が差し込んで、ふたりの影がまた重なる。

あのときより、ほんの少しだけ、近づいた影。

 ふたりの背中は、もう過去を向いてはいない。

隣り合ったまま、同じ未来のほうを見ていた。


エピローグ:記憶の輪郭

 春の終わり。結衣は、自分の部屋の窓辺に小さなスケッチを飾った。

それは、蒼真が後日送ってくれたものだった。

 ──ふたりの背中。音楽室のベンチに並ぶ姿。

 でも、その絵には続きがあった。

 背景に、春の風が描かれていた。桜の花びらが、ふたりにそっと舞いかかっていた。

 そこには、こう書かれていた。

「あの背中のぬくもりを、僕も忘れないから。

 これからは、となりに座る理由を、ちゃんと名前にしようと思う」

 結衣は、静かにその絵を見つめた。

 ──恋って、きっとこういうこと。

 名前をつける前に始まって、言葉にしないまま心を温めて、

 やがて、そのあたたかさが、ふたりを再び連れてくる。

 それが恋の終わりではなく、「恋の続き」なんだと、ようやく思えた。

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