短編小説「言葉では言えないから、あなたが好きなの。」

第一部:沈黙の間に咲く花

 放課後の図書室は、世界から切り離されたような場所だった。

窓際の席は西陽に照らされて、机の上に細長い影を落としていた。人の声はなく、紙をめくる音だけが時折聞こえる。そんな中に、いつも彼はいた。

 ──佐々原蓮(ささはら・れん)

 彼は、結衣のひとつ上の先輩だった。美術部に所属していたが、筆を動かすより、静かに本を読んでいる姿のほうが記憶に残っている。無口で、目立たない人。だけど、なぜか目が離せなかった。

 笹川結衣は、三か月前、偶然この図書室で彼の隣の席に座った。

その日から、ふたりは言葉を交わさないまま、ほぼ毎日、同じ時間にそこにいた。

 話しかけたことはない。視線を合わせたことも、わざと避けるようにしていた。

でも、分かっていた。彼も、わたしと同じように、ここに来ていたのだと。

 ある日、彼が読む本がふと目に入った。

タイトルは『沈黙の詩学』──内容は分からなかったけれど、そのタイトルだけで、結衣の胸に何かが染み込んだ。

(この人は、きっと、たくさんのことを言葉にできない人なんだ)

 けれど不思議だった。言葉がないことが、寂しいとは思わなかった。

むしろ、沈黙が心地よかった。ふたりの間に流れる静けさは、やさしくて、温かくて、名前のない感情のようだった。

 ある日、彼が一枚の紙切れを落とした。何かのメモだろうかと思い、拾って手渡そうとした瞬間、手が重なった。

 そのとき、彼が初めて目を見た。深く、吸い込まれるような瞳だった。

そして、そっと頷いて、小さく「ありがとう」と言った。

 たったそれだけ。

 けれどその一言が、結衣の心の中に、ぽつりと灯りをともした。

その一言だけで、彼の声が、空気ごと心に焼きついた。

 ──それから、一週間。

 彼は、図書室に現れなくなった。

第二部:名前のない感情を手紙にして

 彼が図書室に現れなくなったのは、冬の空が低くなる頃だった。

雲の厚みが、世界の音を吸い込んでしまったように、すべてが沈黙に包まれていた。

 笹川結衣は、それでも毎日、あの席に座り続けた。

空席の隣でページをめくりながら、ふと手を止めては、気配の不在を確かめる。人は「いない」という事実を、なぜこんなにも強く感じ取れるのだろう。

「いた」ことよりも、「いない」ことのほうが重く、長く、記憶の奥に残っていく──そんな気がした。

 彼は、いなくなった。理由は分からない。風邪をひいたのかもしれない。学校をやめたのかもしれない。転校、家庭の事情、あるいは、もう誰かと別の静けさを共有しているのかもしれない。

 でも、本当は、どんな理由も結衣には関係がなかった。

理由ではなく、ただ「ここにいない」ということが、どうしようもなく胸を締めつけた。

 言葉にできない感情がある。

それは、「好き」という二音では届かない場所にある。

触れたいのではなく、ただ傍にいたい。

話したいのではなく、黙っていたい。

笑い合いたいのではなく、静かに呼吸を揃えたい。

 そのすべてを含んだ感情に、名前はなかった。

だから結衣は、その感情をひとつの形にしようとした。

──手紙。

言葉では言えないなら、せめて文字で。

声では伝えられないなら、せめて紙の上で。

 手紙の最初の行を書いたとき、手が震えた。

「佐々原先輩へ」と書いただけで、涙が滲みそうになる。

それはもう、言葉ではなく、ほとんど祈りだった。

 けれど、手紙を書き終えたとき、不思議と心が静まっていた。

伝えられるかどうかは問題じゃなかった。

この想いが、たとえ空に溶けて消えたとしても、たしかにここにあったことだけで、もう十分だった。

 封筒には名前を書かなかった。宛先もない、差出人もない、ただの言葉のかたまり。

でも、それは「誰かひとりのための詩」だった。

結衣は、それを図書室の本の間にそっと忍ばせた。

彼が読むことはないかもしれない。いや、読まれないほうが自然かもしれない。

けれどその行為は、まるで種を蒔くようだった。

芽吹くかわからないまま、それでも春を信じて、そっと、埋めた。

第三部:ふたりの間に咲いた言葉の花

 三月の終わり。

風はまだ冷たくて、でも陽光はやさしく、街の木々が一斉に目を覚ましはじめる。

時間が少しずつ、新しい音をまといながら動き出す。春という季節は、すべての「またね」を静かに揺り起こす。

 図書室の帰り道、結衣はふと、もうひとつの静けさに誘われた。

それは、校舎裏の小さな庭。手入れのされないベンチがひとつだけあり、古びた藤棚が空を見ていた。

あの場所は、誰も足を運ばない「空白」だった。でも、彼女は、なぜかその日、そこに向かいたくなった。

 ──そして、そこにいた。

 佐々原蓮。

三ヶ月ぶりに見るその横顔は、まるで時間の結晶のようだった。

変わっていない。でも、どこか遠くへ行って帰ってきた人の顔だった。

「……先輩」

 その声に、彼はゆっくりと顔を向けた。

微笑んだように見えたが、光の加減だったかもしれない。

「……手紙、読んだよ」

 風が、花びらをふたりのあいだに落とした。

結衣の心は、音もなく震えた。

「見つけて、しまった」

「……読まれないと思ってた。読まれてもいいけど、読まれたら怖いとも思ってた」

「怖い、って?」

「言葉が伝えてしまうことって、時々、沈黙より残酷だから」

 蓮は少しだけ目を伏せた。彼の沈黙は、逃げではなく選択だった。

話さないことで守ろうとしていたものが、たしかにそこにあった。

「……でも、あの手紙、読んでよかったと思ってる」

「どうして?」

「書かれていたのは、ことばじゃなかったから。

 声じゃなくて、まなざしみたいだった。

 言葉よりも前にある、気配のようなもの。

 それが、ちゃんと……届いた」

 その瞬間、結衣の中で何かがほどけた。

ああ、この人は、同じ沈黙の言語を話す人だったんだ、と。

 ふたりの間には、あいかわらず多くの言葉はなかった。

けれど、彼はポケットから何かを取り出して、そっと結衣に差し出した。

 それは、一枚のスケッチ。

静かな図書室の隅、ふたりが並んで座っている絵だった。

正面の顔は描かれていない。ただ、背中と本と、差し込む光だけ。

「……これ」

「描いてた。ずっと、あのあとも。

 君が来てること、気づいてた。話しかけようとして、何度も迷って。

 でも、ことばが、邪魔になる気がして。

 だったら、絵で返事をしようって思った」

「……あの日、わたしが手紙にこめたのも、そういうことだった」

 結衣はその絵を両手で受け取り、そっと見つめた。

そこには、言葉では言えなかったすべてが、たしかに描かれていた。

「ありがとう」

 たった一言。でも、その言葉には、今までの沈黙すべてがつまっていた。

 蓮は小さくうなずいた。

そして、もう一歩だけ近づいて、こう言った。

「これからも、沈黙のとなりにいたい」

 結衣は、笑った。涙がこぼれるように、笑った。

「私も、言葉にできないまま、あなたを好きになったから。

 ……きっと、わたしたちには、この静けさがちょうどいい」


終章:言葉では言えないから、あなたが好きなの。

 卒業式の後、結衣は、再び図書室の席に座っていた。

彼のいない静けさは、もう「さみしさ」ではなかった。

 彼の描いたスケッチは、今も机の引き出しにある。

ときどきそれを取り出しては、そっと触れる。

 そこに描かれた光の加減、背中の角度、本をめくる手。

 ──すべてが、「好き」のかわりだった。

 人は言葉で伝えようとする。けれど本当は、言葉では言えないからこそ、誰かを好きになるのかもしれない。

言えないことが、愛の証なのだとしたら──

 わたしは、これからも、言葉のかわりに、あなたのそばにいたいと思う。

 あなたの隣で、同じ静けさを見つめながら。

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