第一部:ひと夏の背中
祭りの夜というのは、なぜだか昔のことを思い出させるもので、それは浴衣の裾に触れる風が、普段は気づかないような記憶の埃をそっと撫でるからかもしれないし、提灯の灯りが、いつか見た夢の断片をぼんやりと浮かび上がらせるからかもしれない。夏の空は高くて、夜になると遠くなる。星が近いようで届かないのは、あれが光の過去だからで、僕らが空を見上げるたびに見ているのは、いつも「もうそこにはないもの」だ。だけど、どうしてだろう、それなのに僕は君を思い出す。君と並んで歩いた、この坂道を。
汗が額ににじんでいた。夕暮れの残り火が、町を少しずつ色褪せさせていく時間だった。川沿いに屋台が並び、子どもたちがわたあめを抱え、浴衣姿の男女が手をつないで笑っている。僕たちは、あのとき恋人ではなかった。たぶん、友達というには近すぎて、愛していると言うには遠すぎた。だからこそ、名前のつかない関係が、いちばんまぶしかったのかもしれない。
君は浴衣じゃなかった。ジーンズに白いシャツ、髪をいつもより高く結んでいて、僕は不意に「きれいだな」と思ったけれど、それを言葉にした瞬間、なにかが壊れてしまいそうで、結局何も言えなかった。君はわかっていたのだろうか。言葉の向こうにある僕の呼吸や、視線の揺れを。それとも僕が勝手に、自分の想いを勝手に膨らませて、君の沈黙を自分の都合のいい願いに塗り替えていただけだったのだろうか。そう思うとき、僕のなかにある「好き」という感情は、まるで手の中で溶けてしまう氷のようで、温めれば温めるほど、消えていく気がした。
川べりの階段に座って、花火の打ち上がる時間を待っていた。君はラムネの瓶を渡してくれた。しゅぽん、という音とともに開いたその青い瓶は、冷たくて、すこしだけしょっぱくて、そしてどこか懐かしい味がした。「昔、よく飲んでた」と君は言った。「花火、好き?」と訊かれて、「まあ、嫌いじゃない」と答えた僕に、君は笑わなかった。ただ、静かに空を見上げて、何かを待っていた。
夜風が吹き、遠くで合図の太鼓が鳴った。空が、一瞬にして割れた。大きな音が、胸の奥まで響いた。まるで、心臓の真ん中に火が灯るようだった。金と橙色の光が、僕たちの背中を照らした。君はその光のなかで、ほんの少しだけ、僕のほうに顔を向けた。目が合ったのかどうかはわからない。でも、僕はその一瞬に、何かを確かに感じた。「いまなら、言えるかもしれない」と思った。けれど、君は先に言った。「来年も、来ようか、この花火」。その声の柔らかさに、僕はうなずくしかなかった。その言葉が約束なのか、それともただの季節の挨拶なのか、僕にはわからなかった。ただ、君の声の響きが、僕の中のどこかを確かに震わせた。
僕はあのとき、ようやく気づいたのだ。花火の光に照らされてはじめて、「言えないままの好き」が、こんなにも美しく、そして苦しいということに。
第二部:言葉の代わりに消えた光
一年という時間は、長いようでいて、過ぎてみればたった一息のようだった。けれど、その一息の中で僕の生活は大きく変わった。大学に進学し、新しい街で暮らすようになって、知らない人たちに囲まれ、誰かの真似をするように笑い、同じ言葉を使って会話をしていた。けれど、どれだけ環境が変わっても、僕のなかで揺らぎ続けていたのは、あの夜の花火の光だった。あれは、ただの季節の一場面なんかじゃなかった。僕にとっては、言えなかった想いの象徴であり、君と僕をつなぐ、唯一の約束だった。
七月の終わり、花火大会のポスターを駅の掲示板で見かけた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。「今年も行くのかな」と思った。いや、もう行かないかもしれない。「来年も、来ようか」と言ったあのとき、君はどんな気持ちでそう言ったのだろう。ただの社交辞令だったのか、それとも……。考えれば考えるほど、何もわからなくなった。でも僕は、そのわからなさに賭けてみることにした。行って、君がいなかったらそれでいい。いなければ、ちゃんと終わらせよう。けじめをつけるというより、自分に納得させるために、僕は再びあの河川敷へ向かった。
浴衣姿の人々が行き交い、屋台からは甘い香りと油の音が立ちのぼる。去年とまったく同じ景色だった。でも、そこに君の姿はなかった。花火の開始時刻が迫っても、誰かが「久しぶり」と声をかけてくれることもなかった。僕は川べりの階段にひとりで腰を下ろした。ラムネを買ったけれど、飲む気になれず、瓶はぬるくなっていくばかりだった。
空が一閃し、大きな花が音をともなって夜を割いた。僕は目をつむった。君と一緒に見たあの光景を、まぶたの裏に投影しながら、ただじっと静けさに耳を澄ませた。記憶が、静かに波打つ。心の中で何度も繰り返された「もしあのとき言えていたら」という問いが、もう何の意味も持たないことを理解しながら、それでも答えのないまま、僕はあの夜の続きをまだ手放せずにいた。
ふいに、隣に誰かが座った気配がした。振り返ると、そこに君がいた。あのときと同じ白いシャツ、髪を一つに結んで、ラムネの瓶を両手で抱えていた。僕は言葉を失った。君も、何も言わなかった。僕たちは再会の言葉も交わさずに、ただ目を見た。その一瞬で、すべてが戻った気がした。花火がまた一つ空を裂いた。その光の下で、君がぽつりとつぶやいた。
「来たんだね」
それは、僕に向けられた問いではなかった。むしろ、君自身への確認のようだった。でも、僕はうなずいた。言葉が喉の奥でほどけて、どうにかして絞り出すように返した。
「来たよ。……君も」
君はラムネを口にして、苦笑したような、泣きそうなような表情を浮かべた。そして小さくこう言った。
「もう、来ないつもりだった。でも、やっぱり……来ちゃった」
僕はその言葉の後ろにある何かを、深く深く感じ取った。来る理由より、来ない理由のほうが多かったのかもしれない。でもそれでも来てくれたことが、何よりの答えだった。
「来年も来ようか」と言ったあの日、その言葉を君が覚えていたかどうかなんて、もうどうでもよかった。君がそこにいるという事実が、花火よりも鮮やかに僕たちを照らしていた。
第三部:言葉が追いつくその日まで
花火がひとしきり終わり、夜空が暗闇に戻ったあと、余韻のように残る火薬の匂いと遠くで響く祭囃子の音だけが、時間の流れを思い出させてくる。僕たちは並んで座ったまま、しばらく何も言わずにいた。話さなければいけないことは山ほどあるのに、それをどこから始めたらいいのかがわからなかった。目の前には、川がただ静かに流れていた。去年と同じように、君は右隣にいて、ラムネの瓶を持っていて、時折、少しだけ喉を鳴らすように飲んでいた。
「……去年のこと、覚えてる?」
僕の言葉に、君はうなずいた。
「うん。すごく、よく覚えてる」
それだけで、胸がいっぱいになった。誰かの記憶に自分が残っているということ。それがどれほど大きな意味を持つかを、この一年で僕は痛いほど知った。忘れられていなかったという事実は、それだけで「会いに来てよかった」と思わせるには十分すぎた。
「ずっと、言えなかったことがあるんだ」
そう言うと、君は少し顔を横に向けた。遠くの夜空を見つめて、表情を変えずに、ただ静かに聞こうとしていた。
「去年、花火を見てるとき、君が『来年も来ようか』って言ってくれたとき、本当はあの場で……『好きだ』って、言いたかった。でも、言えなかった。怖くて。言ってしまったら、なにかが終わってしまいそうで」
その瞬間、君は目を閉じた。そして、わずかに口を開いた。
「……私も」
「え?」
「同じだった。あのとき、私も言おうとした。でも、あの距離がきれいすぎて、崩したくなかった。壊したくないって思った。ずるいよね」
「ううん。きれいだったよ。あの沈黙も、言えなかった想いも。全部。きれいで、だからこそ苦しかった」
君が顔を上げて、僕の目を見た。まっすぐに、まるで一年の時間を飛び越えるような視線だった。
「でも、言えたね。いま、ちゃんと」
「うん、ようやく、言えた」
そして、僕はもう一度、ゆっくりと言った。
「君が好きだった。ずっと」
君は、少しのあいだ何も言わず、それからほんの少し、声が震えた。
「私も、好きだった。いまも、きっと、ずっと」
その言葉は、涙よりも温かく、花火よりも静かで、ラムネよりも胸にしみた。言葉では言えなかった感情が、ようやく言葉になった。言葉が追いついた、というより、やっと同じ歩幅になれたような、そんな感覚だった。
そのあと、ふたりはゆっくりと立ち上がり、祭りの余韻の残る川沿いを歩いた。手をつなぐこともなかったけれど、距離はもうなかった。来年の話はしなかった。代わりに、帰り道の途中でふたり同時に口にした。
「また、来よう」
来年でも、何年後でもなく、「また」来ようと。そう言えることが、何よりの始まりだった。
終章:照らされるのは、いまここにいる僕たち
あとで思い返すと、あの夜のことはすべてが過不足なく、美しかった。誰も花火を撮っていなかったのに、記憶にはすべて焼きついていた。君の表情も、声の響きも、沈黙も、言葉も。なにひとつこぼれず、あの夜のすべてが、僕の胸に在った。
舞い上がる花火が、僕たちを照らしたのは、ほんの数秒のことだった。けれどその光は、いまも消えずに、ずっと胸の奥でゆっくりと燃え続けている。
忘れられないのは、あのときの空でも、色でもない。隣にあった、名前のつかない関係がようやく言葉になった、あの一瞬の「静けさのあと」の時間だったのだと思う。