2022年8月12日(金)
午後11時過ぎ、千葉駅の5番ホーム。空気は湿っていて、汗ばんだシャツの背中がべたついていた。由梨と並んでベンチに座って、飲みかけのミルクティーを足元に置きながら、私は彼女の横顔をちらちらと盗み見ていた。目が合うと気まずいから、あくまで自然を装って。だけど、気づいていたと思う。由梨はいつも、そういうところに鋭い。
「ねえ、広瀬くんって、昔からずっとああいう感じなの?」
由梨が急にそう訊いたのは、今日ふたりで行った飲み会の帰り道、やたらと広瀬が私に絡んできたからだと思う。あのテンションの高さも、ボディタッチの多さも、いつものことだ。だから私にとってはどうでもよかった。でも、由梨にどう見えていたのか、それが少し気になった。
「うん。ああ見えて、わりと気を遣うタイプなんだけどね」
私はそう言ったけれど、本当はもっと違うことを言いたかった。たとえば、「私が気にしてるのは広瀬じゃなくて、今あなたが何を考えているのかです」とか、あるいは「今日のアイシャドウ、似合ってる」とか。でも口には出せなかった。そういう言葉を発するには、この距離は近すぎて、怖かった。
由梨は目を伏せて、スマホの画面を眺めながら「そうなんだ」とだけ言った。
髪の先が少し濡れていて、雨に降られたことに気づくのが遅れたんだろうな、と思った。
傘を持っていた私は、自分だけが乾いていることが少し申し訳なくなった。
電車が来るまであと7分。アナウンスが何度か流れて、駅の空気が少しずつ夜を深くしていく。
「私さ、大学入ってから、誰かにちゃんと好かれたことってない気がする」
突然のその言葉に、私はどう返していいかわからなかった。
由梨は続けた。「告白されたことはあるけど、それって“私”を見てたっていうより、表面的なことだった気がする。見た目とか、ノリとか」
そのとき私は、言うべき言葉をたくさん抱えていた。でも、どれも棘があって、選べなかった。
「私は、由梨のこと、ちゃんと見てるよ」
そう言えたらよかった。
でも、実際に言えたのは、たった一言。
「それ、ちょっとわかるかも」
電車がホームに入ってくる音がして、ふたりとも立ち上がった。
ドアが開く直前、彼女が私のほうを見て「今日、誘ってくれてありがとう」と笑った。
その笑顔に、私は胸が締めつけられた。言えなかった言葉のぶんだけ。
由梨が乗っていった京葉線を見送ったあと、私はベンチに戻って、残ったミルクティーを一口だけ飲んだ。ぬるくて、少し甘すぎた。
言えなかったことは、風に流されて、線路の向こうへ消えていった気がした。
でも、私の中にはまだ、それがちゃんと残っている。言葉にならないまま。
次、また彼女と会えたとき。
ほんの少しでも、その続きを話せたらいい。そう思ってる。今はまだ、それだけ。